首の付け根から溢れ出る血は、振り払ったはずの死への恐怖を駆り立てた。
敵は倒したのだから、止血をして、応急処置をしないといけない。そんなことはわかっているが、痛覚が思考を鈍らせ、鼻腔を満たす銅に似た臭気が呼吸を速くする。
飛んできた破片が肩口を掠めただけなのに、出血量が多い。片手で傷を押さえると瞬く間に掌が真っ赤に染まったが、この程度で済んでよかった。あと少しずれていたら急所に命中していたし、そうなっていたら魔術礼装があったとしても死んでいただろう。傷は浅いはずなのに痛みが強い。歯を食い縛ってみたが、呼吸に合わせて傷が疼いた。
「マスター!」
オデュッセウスが駆け寄ってきて、血でぬめった手を剥がし、大きな掌で傷口を圧迫してくれた。
「今止血をする。見様見真似だが、魔力での治癒を試みる」
彼は冷静だった。さすがは数多の困難を乗り越えた冒険野郎だ、なんて、ぼんやりとそんなことを思った。
「傷はそんなに深くないよ。魔術礼装のおかげだね」
努めて平静に言ったつもりだったが、オデュッセウスの顔は険しかった。傷口を圧迫する手に微かに力がこもる。彼は躊躇しているように見えた。それもそうだ。限界してから、魔力による治癒を行ったことはないはずだ……
「荷物に医療キットがあるから」と言い出そうとして口を噤んだ。荷物を持ってくれていたのは、特異点にレイシフトした際に離れ離れになってしまったサーヴァントだったのを忘れていた。
ふと視線を感じて意識をオデュッセウスの背後にずらすと、バジリスクの群れを蹂躙し、最後の一体を仕留めたテスカトリポカが鷹揚とこちらに歩いてきていた。全身を覆う黒色の鎧は、目立たないが、よく見ると血塗れだ。
「治せないか?」オデュッセウスが首を巡らせる。
「この神に傷を癒せと?」テスカトリポカは片目を眇めた。
「全能であると聞いた。それとも、完全無欠の神にもできないことがあるのか?」
ふたりの間に沈黙が降り注ぎ、空気が変わった。
「舌がよく回るな。神の怒りを買ったのも頷ける」
先に沈黙を破ったのはテスカトリポカだった。
オデュッセウスを押し退けるようにして入れ替わると、彼はわたしの襟元を強引に引っ張って、傷口を剥き出しにしてきた。
「堪えろよ」
濃い影が被さってきて、テスカトリポカの頭が肩口に埋もれた。
一瞬なにをされているのかわからなかった。小さい頃に観た映画に出てきた吸血鬼みたいに、彼は傷から脈動に合わせて溢れ出る血を啜っていた。
腰のうしろに回った手に強く抱かれた。肉食獣に首を咬まれて動けなくなった獲物と同じく、身動きが取れなくなる。舌がくねって傷を舐め上げると、くすぐったかった。ぞくぞくして、身体が強張った。アドレナリンで早鐘を打つ心臓の鼓動が耳元でする。巡る血潮が沸き立っているのか、総身が熱い。
「…………っ」電流が神経を灼き、骨をも貫くような痛みが走って、頭の中が真っ白になった。戦士の心臓を好む古の神は、溢れ出る血液で喉を潤している。薄い皮膚に歯が食い込む感覚がした。喰われる――そう思った。しかし、一方で、テスカトリポカになら身を委ねてもいいという安心感があった。
すぐ傍では、オデュッセウスが剣呑と眉を寄せて様子を窺っている。ただの応急処置の一環なのに、なんだか恥ずかしかった。
鼓動が落ち着いてきた時、テスカトリポカが頭を離した。口の周りが血で濡れていた。
「血液を媒介にして『戦士の司』で少し内側を弄った」
彼は荒っぽく手の甲で口元を拭った。
「心臓だけでなく血液まで甘いとはな……悉くオレの口に合わん。甘すぎる。あの冥界の王ですら冥界からオマエを追い出すだろう。命拾いしたな、未熟な戦士」
裂けていた傷口が塞がっていた。痛みもほとんどない。
「ありがとう……」
呆気に取られ、素っ気なく背中を向けて離れていくテスカトリポカを視線で追う。
「最初から救うつもりでいたのだろう」
オデュッセウスがテスカトリポカの背を見据えて言った。テスカトリポカは足を止めて一刹那肩越しに振り返ったが、なにも言わずに再び歩き出した。
「神というのはいつの時代も素直ではないな。だが、マスターを救ってくれたことに感謝しよう」
血潮が冷めていく。身体に刻まれた戦士の司の紋様が熱を持つのを感じた。頭の中がすっきりしていた。掌では、血が乾いていた。