常闇の牙

「いいものをやろう」
 テスカトリポカはそう言って懐からなにか取り出し、わたしに差し出した。
 いつものように両手で受け取る。お菓子かと思ったけど違った。これといって特徴のない黒いハンカチだが、なにかを包んでいるのか、ちょっとした重みがあった。
 端が向かい合わせに畳まれたハンカチを摘まんで捲っていくと、乳白色の粉を吹いた、黄色みがかった小振りな石のようなものが数個現れた。「これは?」
 テスカトリポカに視線を移すと、彼は「コーパルだ」言った。「香だよ」
 ハンカチごとコーパルと呼ばれたそれを鼻先に寄せてみる。ほのかに爽やかな香りがする。
「コーパルって、琥珀になる前の樹脂の塊ですよね。お香なんだ」「そうだ。今は死者を迎え入れる祭事くらいでしか使わないようだが、オレたちの国では、オレに仕える神官トラマカスキ 神殿テオカリで日に数度焚いていた。おまえの部屋には翁さんからもらった香炉があるだろう。それを使え」
「うん。ありがと。今夜焚いてみる」
「きっと気に入ると思うぜ」テスカトリポカはそう言って、白い歯を見せて笑った。

 ダ・ヴィンチちゃん情報だが、コーパルの香は、現代の中南米では「死者の日」に死者の霊を導くために焚かれるが、アステカ文明においては、神への供物として捧げられたり、浄化のために使われていたそうで、メシーカ人にとって神聖なものだったらしい。
 テスカトリポカからの贈り物というのは、ちょっと特別な気がして嬉しかった。
 夜の帳が降りて、部屋に戻って、コーパルの香を焚いた。
 ふわりと立ち昇る薫香ははじめて感じたものだった。いつも焚く香——山の翁からもらった魅惑的な香りの白檀——とはまた違う。「ウッド系」というのだろうか。柔らかい甘い香りの中に、少し刺激的なものも感じる。鼻に馴染む、品のある、奥深い香りだ。
 テスカトリポカからもらった香は、安息へと(いざな)ってくれた。
 芳香が部屋を満たした時、ドアが開いた。やってきたのはテスカトリポカだった。
「お香、焚きましたよ」
 操作していたタブレット端末をベッドに置いて立ち上がる。
「懐かしいぜ。この香りが神殿(テオカリ)から絶えることはなかった」
 テスカトリポカは室内の空気を吸い込むと、口の端を緩めた。
「とてもいいにおい。気に入っちゃいました」
「だろう? オレを敬う気になったか?」
「敬ってます。これでも、ちゃんと」
 テスカトリポカのそばに寄ると、腰のうしろに手が回り、抱き寄せられて、額にキスをされた。
 続けて耳に、頬にと口付けが落ちたが、唇には触れてはくれなかった。慈しむような口付けは嬉しい。けれど、欲をいってしまえば唇にしてほしい。そして、触れる以上のキスがしたい……胸の下で期待が息を潜め、漏れる吐息が自然と熱を帯びる。
——ほしい。
 頭ひとつ分ほど背の高いテスカトリポカを見上げ、彼の厚い胸に手を添えて、口唇を引き結んで喉元までせり上がった願望を堪える。
「こんなに簡単に急所を見せるなんてな」
 テスカトリポカの少し冷たい指が首筋をなぞる。
「んっ」
 ぞくぞくして、官能の熱にあてられた声が漏れた。
 首の側面を撫でた指は、そのまま頬に滑った。厚い掌に包まれ、安心感が込み上げる。
 親指の腹が唇に添えられた。むにっと潰れた唇の隙間から舌をちょっとだけ出して、彼の指の腹を舐め、爪の先を口に含む。
「ずいぶん積極的じゃないか。いい女になってきたな」
 喉の奥で笑い、テスカトリポカが身を屈めた。剥き出しになった喉元に鈍く心地いい痛みが走る。薄く柔らかな皮膚に歯が浅く食い込む感覚に目を細め、テスカトリポカの背中に手を置いて、指先に力を込める。
 コーパルの香りに包まれながら、濃い夜がゆっくりと更けていく。
 喉に食い込む常闇の牙は、わたしを離そうとはしなかった。