「お弁当美味しかったよ、ごちそうさま!」
種火周回から戻ったばかりだというのに、立香は疲れなど知らないようにエネルギッシュで、溌剌としていた。
彼女から空の弁当箱を受け取ったティアマトは「そうかそうか」と朗らかに微笑んだ。「たくさん食べて、えらい」
何種類ものおかずを詰めてずっしりと重かった弁当箱は——そのままでいいのに、立香は律儀にも弁当箱をいつも洗って返してくれる——今やすっかり軽い。 それが嬉しくて、弁当箱を包む黄色いランチクロスの結び目に視線を溜めて、ティアマトは暖かくなった胸に溜まった吐息をふっと漏らした。
「今日は卵焼きが入ってて嬉しかった。ティアマトの卵焼き大好きなんだ」
「そう言ってもらえると、母は嬉しい。立香の喜ぶ顔を思って作っているから」
「愛情たっぷりだね。わたしも嬉しい」
「料理は、愛情が一番、なのです」
「……愛情、かあ……」
「そう。愛情がこもっていれば、料理はぐっと美味しくなる」
「わたしは料理は得意じゃないけど」立香はふと顔を横に向けた。「愛情をこめたら、もしかしたらあのひとも、美味しいって言ってくれるかな」
どこか別の場所――否、ここにいない誰かを見ている立香の頬がほんのり赤くなり、琥珀色の眸に鮮やかな情熱が過ったのを、ティアマトは見逃さなかった。 創世の母のいとし子は、誰かに焦がれている。まだお付き合いは早いという思いがあったが、背中を押してあげたいという気持ちもあった。今回は、後者が勝った。
「食べてもらいたい相手がいるのなら、手伝うぞ」
ティアマトは弁当箱を抱く手に力を込めた。
「……いいの?」
「可愛い立香のためなら、母は、一肌脱ぐのです。ハイパーお母さん、出勤。なにを作りたい?」
「ええとね……うーんと……あ、オムライスを作ってみたい」
照れくさそうに笑った立香は、恋をしているうら若き乙女の顔だった。
食堂が賑やかだった。
喫煙所へ向かっていたテスカトリポカは、ふと足を止めて廊下から食堂の様子を窺った。なにやら熱気が凄まじい。果て、今日は特別なメニューだっただろうか……
彼が食堂に入ると、厨房には、いつものメンバーではなく、立香と、かつての[[rb: 獣> ビースト]]がいた。立香は赤いエプロンをして、菜箸を片手にフライパンを小さく揺らしている。
テスカトリポカは察する。今食堂にいるのは、マスターの手料理を食べているサーヴァント共なのだ、と。
「マスター! どうか『萌え萌えキュン』を! 美味しくなる魔法を拙者にかけてくだされ!」
テーブルの真ん中で黒髭が必死に叫んでいる。それを隣にいるバーソロミューが宥めているが、彼は「オムライスっつったらそれしかねえだろうが! 活発美少女の『萌え萌えキュン』が見たくねえのか!?」と血走った目でわけのわからないことを熱弁しはじめた。
別のテーブルでは、子供のサーヴァントたちが「トナカイさんのオムライス、美味しいです」「わたしのはケチャップでウサギが描いてあったのよ」「お母さんの作ったご飯、嬉しいな」「卵がとろとろですね」と子供用のスプーンを握って、上機嫌で床に届かない足を揺らしている。
「……へえ」
いつかのバレンタインデーを思い出し、テスカトリポカはジーンズのポケットに片手を突っ込んで思惑する。マスターの振る舞う料理。それを喜ぶサーヴァントたち……これは商売になるかもしれない……
「繁盛してるな、マスター」
厨房を覗き込むと、バターの香りがテスカトリポカの鼻先を掠めた。
「テスカトリポカ!」立香は嬉しそうに、しかし、余裕がなさそうに彼を見た。フライパンには、卵液が流し込まれている。
「今、すごく忙しいんですけどっ」彼女はフライパンを前後に傾けながら続けた。「あとでまた来てくれませんか? あなたにも、食べてほしいんです、オムライス」黄色い薄い膜が広がっていく。
「今じゃなくて、あとでか?」
「うん。お願い。あなたにも……あなたに、食べてほしいの」
言葉の端々と、真っ直ぐにテスカトリポカを見詰める琥珀色の眸には、一握の熱情があった。彼は、それを無碍にしようとは思わない。
「わかった。またあとで来るとしよう」
テスカトリポカはゆっくりと踵を返し、食堂をあとにした。
夕食時を過ぎた閑散とした食堂にテスカトリポカはいた。
彼の視線は、厨房に向いている。そこには立香だけがいる。ほんのりと漂ってくるバターの香りは、食欲をそそるものだった。
「お待たせしました」
トレイに皿を載せて、立香はやってきた。
目の前に置かれた丸い皿には、つやつやとした、美しい楕円形のオムライスが盛られている。真ん中には、ケッチャプのハートに囲われた猫の顔があった。
「なんで猫なんだ?」
「ジャガーです、それ」立香は微苦笑してテスカトリポカの向かいに座り、頬杖を突いて、組んだ手に顎を載せた。「召し上がれ」
銀色のスプーンがオムライスを崩した。中はチキンライスだった。細かく切られた鶏肉と、タマネギに人参、グリンピース、ベーコンも入っている。
立香は大きく一口頬張ったテスカトリポカをじっと見詰めた。「ど、どうですか……?」
「美味い」サングラスのレンズの奥で、切れ長の目が柔和に細まる。「腹を空かせてきたかいがある」彼は、一口二口とぱくついた。
「この卵がいいな。くどくない。隠し味はなんだ?」
「それは」立香は背筋を伸ばした。「愛情です」
テスカトリポカは手を止めた。立香の頬がみるみるうちに紅潮していく。
「あなたに食べてほしくてティアマトに教わりながら作ってたら、みんなが食べたいって言ってくれて……遅くなっちゃったけど、あなたに食べてもらえてよかった。美味しいって言ってもらえて、嬉しい」
はにかんだ彼女は、満足そうだった。
「オレのため、ねえ。おまえから、また唯一のものをもらったな」
スプーンの先端が皿に当たって、無機な音が跳ねた。愛情の詰まったオムライスは、あっという間になくなった。
「さて。対価を受け取ったからには、相当の報酬が必要だ」
「いいです。食べてもらえただけで嬉しいので」
「なに、筋はきっちり通すさ。そうだな……オマエさんに一日付き合うのはどうだ? 足りない素材を回収しに行くもよし、息抜きにどこかへ行くもよし。どこへでも、喜んで付き添うぜ」
「じゃ、じゃあ、わたしと……その、デ、デッ、デート、してくださいっ……!」
「ああ?」テスカトリポカは目を瞬かせた。「オマエさん、案外大胆だな」それから、ふっと笑った。
「だめ、ですか?」
「いいや。エスコートしてやるよ、お嬢さん」
「ありがと。楽しみにしています」
エプロンの胸元に拳を埋めて、立香は微笑んだ。
恋の一歩は、バターとケッチャプの香りがした。ふわふわの卵の膜が熱い親愛を包み込む。
まだ彼に好きだとは伝えられないけれど——いつか、この愛情も頬張ってほしいと、立香は思った。